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「裏切り者」の名を受けて……魏を捨てた夏侯覇、決死の逃避行

ここからはじめる! 三国志入門 第119回

三国時代地図(作成:ミヤイン)

 

■なぜ、亡命先の蜀で歓迎されたのか?

 

 険しい道のりを経て、蜀の兵に援けられながら辛くも蜀へ入った夏侯覇。彼は成都(蜀の都)で、皇帝の劉禅に謁見する。拝礼する夏侯覇に対し、「君の父(夏侯淵)は戦場で命を落としたのであって、わしの父(劉備)が殺したのではないぞ」と、劉禅は詫びるように言った。

 

 蜀国内においても、夏侯淵を討った事実は重く受け止められていた。それは無論、夏侯覇と劉禅とは親戚同士だったからだ。

 

 遡ること、じつに50年ほど前の西暦200年――。夏侯淵の姪(めい)にあたる13歳の少女が、薪(まき)を取りに外出していたとき、ひとりの武将が彼女をさらい、自分の妻にするという「事件」が起きた。武将の名は張飛。のちに蜀国の重鎮となる男だった。現代の価値観で語ると眉をひそめる方も多かろうが、これも乱世ならではのエピソードである。

 

 その少女は、夏侯覇の従姉(いとこ)。いきさつはともかく、張飛と夏侯淵・夏侯覇は「親戚」となった。

 

 やがて夏侯家の少女は、張飛との間に二女をもうけた。娘たちは、二人とも劉禅の妻となった。蜀の重臣・張飛の妻が自分のいとこであったこと、蜀帝・劉禅の妻子に夏侯家の血が流れていたことが、夏侯覇の蜀への亡命を後押ししたのである。

 

 夏侯覇が亡命したとき、夏侯姉妹のうち姉はすでに亡くなっており、妹の張皇后が劉禅の皇后になっていた。いったい、どんな言葉を交わしたのか。

 

 さて、亡命先の蜀で歓迎を受け、厚遇された夏侯覇。しかし、目立つほどの活躍はついに見られなかった。

 

 ひとつの逸話がある。夏侯覇は蜀の名将として評判高かった張嶷(ちょうぎょく)と親交を結びたいと思って面会した。しかし張嶷は「私はまだあなたをよく知らないし、あなたも私をよく知らない。3年後に改めて来てださい」と答えた。やはり降将という立場上、警戒されていたのかもしれない。

三国志演義では父と同様、戦場に華々しく散る/三国演義連環画より

 小説『三国志演義』では、夏侯覇は姜維が率いる北伐軍の一員に加わり、参謀として活躍する。姜維の無謀を諌めたり、姜維の危機に駆けつけて救い出したりと、父・夏侯淵を彷彿とさせる奮闘も見せる。

 

 しかし258年、城攻めのさなかに矢の雨を浴びて戦死する。父同様、戦場での死に場を与えられているが、正史での死因は判然としない。姜維とともに北伐に参加し、10年あまりののち、静かに世を去ったようである。

 

 夏侯覇の亡命後、魏では批判の声もあがったが、残された彼の家族たちは温情をかけられ、処刑は免れて楽浪郡(東北地方)へ流されるにとどまった。

 

 また夏侯覇の弟・夏侯威(かこうい)は司馬一族のもとで厚遇を受け、婚姻関係も結び、新興国である晋(しん)の帝室の外戚として栄えた。その孫の夏侯湛(たん)は歴史書『魏書』など多くの著作を残し、歴史家・政治家として名を残してもいる。

 

 また夏侯覇には娘がいて、魏の名族出身の羊祜(ようこ)に嫁いでいた。多くの親族が(蜀へ降った)夏侯覇に絶縁状を出したなか、羊祜は傷心の妻をよく慰めたという逸話がある。

 

 わが国の戦国時代、信濃の豪族・真田家において兄の真田信之が徳川、弟の信繁(幸村)が豊臣に属すことで家が分裂。本家(松代真田家)は命脈を保ち、分家は次男が名を変えて密かに生き延びた(仙台真田家)といわれている。なにも乱世においては珍しいことではないが、夏侯一族の例もそれに似て、考えさせられるものがある。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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